コロネット作戦

東京湾の戦争遺跡

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1998年2月7日

今回は2度目のタチウオ釣りをお伝えするのだが、前回【プッツン!ノコギリ歯】を読んだ人は“タチウオの歯が鋭くて危ない”ということを既にご承知のはず。もし読んでいないのなら今回の【コロネット作戦】を読む前に是非読んでほしい。

【プッツン!ノコギリ歯】を先に読む

さあ、前回の釣り日誌を読んだ人はここからさらに読み進もう! 今回は釣り日誌の枠を越えて、前回よりはるかに興味深い内容であるはずだ。役には立たないかもしれないが、きっと楽しめるに違いない。

じゃあ、本題の前に今回も雑学を披露しよう。何についての話かというと、まずは太田屋さんのある金沢八景の野島についてだ。

いろいろ調べてみると、公園やバーベキューハウスがあって一見平和に見える野島にも太平洋戦争の遺跡があることがわかった。このあいだ【プッツン!ノコギリ歯】を書いたとき、猿島、第3海堡、第2海堡、観音崎などに砲台があったことを知ったのだが、そればかりじゃなく、戦時中は三浦半島全体が日本軍の要塞と化していたらしい。

野島にあったのは旧海軍の要塞で、山頂には高射砲陣地跡、海岸に面した所にはコンクリート製の巨大なトンネルがあるという。なんでもこのトンネルは野島の山腹を貫通するほどの長さがあって、飛行機などを隠すために作られたようだ。全長270メートル、広さは飛行機が入るくらいだからかなり広いはずだが、みなさんは知っていたかな?

だが、驚くのはまだ早い。まだまだ戦時中に作られた軍事施設が三浦半島にはゴロゴロある。たとえば去年の夏、インターネットで知り合った人のヨットに乗せてもらってたのだが、そのヨットが置いてあった油壷も特殊潜航艇海龍の基地であった。

特殊潜航艇海龍について

海龍は2人乗りの雷撃および特攻用で、長さが17.2メートル、魚雷2基を装備し、船首部分に600キロの爆薬を積んでいた。終戦当時、三浦半島の油壷、小網代、江奈湾などに約200隻が配備されていたが、結局使われることはなかった。また、この他に1人乗りで魚雷を装備しない特攻専用の回天という機種もあった。

だが、海龍はまだ兵器らしい兵器と言えるだろう。実は終戦間際に日本軍はもっと悲惨な兵器を作っていたのである。その頃になると南方の制海権を連合軍に奪われ、補給路を絶たれた日本本土では金属が底を突ていた。

あらゆる金属という金属が軍によって集められ、とうとう各地にあった二宮尊徳の銅像までが溶鉱炉でドロドロに溶かされたという。

震洋(Flash)

苦肉の策として海軍はベニア板で小船を作り、その先端に250キロの爆薬を付けて敵艦に突っ込む訓練をはじめた。震洋なんて名前だけはカッコイイが、突っ込む前に蜂の巣にされて自爆するのがオチだったかもしれない。

海軍はこの作戦を有望視して6,000隻以上の震洋を建造したという記録が残っているのだが、三浦半島、伊豆半島、伊勢志摩、南九州あたりには震洋を敵の艦砲射撃から守るための岩穴が今も数多く残されている。磯釣りが好きな方はどこかでその岩穴を見ているかもしれない。何のために掘られたのか今はじめて知ったという人もいるのではないだろうか。

終戦間際は一億特攻、一億玉砕などという悲惨な言葉がもてはやされた時代だ。だから三浦半島には敵をせん滅するための隠し玉がこのほかにも用意されていた。毎回この釣り日誌を読んでくれている人はTomyがカワハギ釣りに行ったときのことを思い出してほしい。あのときは久里浜の夫婦橋にある巳の助丸に乗ったのだが、この夫婦橋には人間機雷伏龍の訓練所があった。

この伏龍については Tomy も今回が初耳だったが、この作戦の先進性は群を抜いていたと思う。作戦自体は子供でも考えられそうなのだが…。

人間機雷伏龍について

足にオモリを付け、特殊な潜水服に身を包んだ兵士は海に潜って敵艦の下まで行く。そして爆薬を敵艦に仕掛けるか、棒型の爆雷で船底を突き上げて一丁あがり。(自分も死ぬけど・・・)

じゃあ、何が先進的かというと…。潜水具が先進的だったのである。その当時はアメリカ軍でさえ今のようなアクアラングを開発できていなかったのだ。

伏龍は文字どおり伏兵だから長い時間海に潜っていなければならない。そこで考え出されたのが空気清掃缶である。これは一種の閉鎖循環式潜水具として開発中であった。空気清掃缶というのは背中に背負った缶の中に苛性ソーダが入っていて、隊員はまず鼻から缶の中の空気を吸う。そして吐くときは口から清掃缶の中に呼気を送り込むという仕掛けだった。

そうすると缶の中で化学反応がおこって二酸化炭素が取り除かれるわけだ。しかし、呼吸法が難しく、訓練中に大勢の死者を出したという記録が残っている。間違って口から空気を吸おうとして、苛性ソーダが口に入ってしまったらしい。水中でパニックを起こした訓練兵がわずか1、2ヶ月のうちに50人も死んだという記録が残っている。

久里浜周辺の地図(Flash)

訓練は夫婦橋から船で平作川を下っていき、海に出たら右に曲がって野比海岸の沖あたりで行われていた。この辺で夜釣りをしている人達にとってはこたえられない話だろう。

多い日には5人もの死者が出て、野比海岸にズラリと死体が並んだそうだ。遺体は戸板に乗せられて約1キロ離れた最光寺の近くまで運ばれ、毎日のように焼かれていたという。久里浜あたりでシーバス釣りをしている人は聞かない方が良かったかもしれない。

ところで、連合軍が本土に上陸してくる前に幸い終戦になったわけだが、連合軍は真剣に本土上陸作戦も考えていた。その作戦の名前こそが今回の題名になったコロネット作戦だ。ノルマンディー上陸作戦というのはみんな聞いたことがあると思うが、コロネット作戦は初耳じゃないだろうか?

資料によると上陸予定ポイントは2ヶ所で、1つ目が九十九里浜の片貝海岸付近、そしてもう1ヶ所が茅ヶ崎海岸だった。千葉と神奈川から侵攻して、東京をジワジワと包囲する作戦だったのだろう。アメリカは物量に物を言わせる戦術だから、真正面からの攻撃は考えていなかった。

ということは、アメリカの戦艦が直接東京湾に入ってくることはなかったわけだ。まあ、それだけ東京湾の守りは厳重だったとも言えるのだが…。

もしこの作戦が行われていたら本当にひどいことになっていた。寒川には毒ガス爆弾の製造工場があったというから、きっとその毒ガスが使われたはずなのである。ベトナムで実際に使われたマスタードガス(イペリット弾)などが寒川には大量に保管されていたらしい。そして、731部隊が研究していたという細菌兵器も恐らく使われていただろう。

ちなみに連合軍の関東上陸予定日はYデーと呼ばれていたのだが、おそらく昭和21年の3月には決行されていたと思う。原爆と沖縄の犠牲がなかったら、もっともっとたくさんの人間が死んだに違いない。特に平塚、茅ヶ崎あたりは壊滅的な被害を受けたはずだ。この文章を読んでいる人の中にも上陸作戦があったら生まれていなかった人がいるかもしれない。

何しろちっぽけな硫黄島に撃ち込まれた砲弾だけでも10万トン以上だったというのだから、アメリカ軍がつぎ込んだ物量は桁外れ。まさに湯水のごとくの大量消費だったのだ。最悪でも関東上陸が成功した時点で終戦になったと思うが、平塚、茅ヶ崎のあたりは地形が変わるほど砲弾を浴びていただろう。


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