第2海堡

1998年4月2日

東京湾要塞指令部に従軍していた毛塚五郎は【東京湾要塞歴史】という本を残している。その本によると第1、第2、第3海堡の建設は、はるか昔の幕末に提唱されたらしい。

【海国兵談】林子平(天明6年)

「江戸日本橋よりあみだまで境なしの水路なり。然るに此れに備えずして長崎のみに備ふるは何ぞや。小子が見を以てせば安房、相模両国に諸候を置いて入海の瀬戸に厳重な備を設けたきことなり。日本の総海岸へ備へることは先づ此の港口を以て始めと為すべし。是れ海国武備の肝要なる所なり」

これを簡単に解釈するとこうなる↓

お江戸日本橋から外洋までは無防備なただの水路だ。日本全土の海岸を守ることはままならないが、せめて東京湾だけは外国の侵略に備えて軍備をしなければならない。

いつまでも長崎だけというわけにはいかない時にきている。これは海洋国日本にとって軍備のキモですぞ!

そして、明治時代には海堡の建設が具体化してくる。

【東京湾防備についての上申書】(明治7年12月27日)

「東京は我国の首都であるから、その防備を緊急に施設すべきである。しかしながら東京湾は天然の剣に乏しく東京湾の最狭部分である観音崎と富津岬との距離は1万米もあって、その防備は極めて困難である」

「従って、富津岬の洲を埋めて砲台を築造するとともに、西岸の観音崎、走水の山頂および猿島の要域に大口径で遠距離を射撃し得るかつ、装填の速やかな砲を備えるとともに、浮砲台を設けて敵艦の侵攻を阻止する必要がある」

「しかし、海門の兵備が強固であれば、敵は浦賀近傍に上陸して陸上進撃を行うであろうから、浦賀湾口の旧砲台を修繕して陸正面の防備を強固にするならば、品海、横浜港はもちろん横須賀もこの海門の内にあるから共に兵備を要しない。しかしながら、その費用の概計については容易に算定し難いから後日改めて上申する」

そして、明治12年10月10日に海堡建設の許可が下りた。その後、観音崎にまずクルップ製カノン砲が設置され、海堡の建設は藤田組(フジタ)が落札して基礎にするための御影石の切り出しが開始された。

第1海堡

明治14年8月1日第1海堡起工。

水深約5メートルのところに建設されたのだが、地盤は貝殻混合の砂が1,2メートル堆積していた。地盤は弱く台風のたびに洲の形は変わっていた。

まず、大量の捨て石をして基礎を作り、そのまわりに御影石を並べて海面から1.7メートルまで積み上げた。そして最後に捨て石のすき間を砂で埋めた。

明治23年12月20日第1海堡竣工。職工人夫のべ316,770人。

明治27年6月19日「海堡地管轄ノ件」が制定公布。これによって第1及び第2海堡は千葉県の管轄、第3海堡は神奈川県の管轄になった。

同様に第2海堡、第3海堡の建設も進められていく。

第2海堡

海堡の位置は第1海堡の西方2,577メートル、面積は41,300平方メートル。地盤は第1海堡と同様だったが、水深は8〜10メートルだったため第1海堡と同じ工法は通用しなかった。

明治22年7月起工。

まずは海面まで大量の捨て石を積み上げて徐々に面積を広げ、砂を大量に撒いて捨て石のすき間を埋めていった。

外周に御影石を投入する際は、投入場所を示すブイを使って船から石を投入。投入の度にブイの位置を少しずつずらしていったのだ。そうして外周の御影石を海面上2メートルまで積み上げてから内部に砂を入れて完成。

大正3年6月竣工。25年の歳月を要し、職工人夫のべ495,850人。

第3海堡

海堡の位置は走水低砲台と第2海堡との一直線上ほぼ中央で、第2海堡からの距離は2611メートルである。海底の地盤は固かったが水深は39メートルもあり、潮流も速かった。

この第3海堡が建設されたのは短径1,800メートル、長径2,000メートルの岩礁の上で、そこを外れると急に深くなる沖根である。

明治25年8月捨石開始。

潮流が秒速20メートルにもなる急流部に位置するため、世界中でまだ誰も成し遂げていないような難工事を強いられた。

明治40年3月竣工。捨石量275万立方メートル、捨土量80万立方メートルを要し、人夫はのべ435,290人

第3海堡の頭部の長さは68メートル、中部の長さが177メートル、突尾部の長さが81メートルで総面積264,000平方メートルと文献には記されているが、今はほとんど崩れ去って見た目は岩礁のようである。

関東大震災

日清日露、第1次世界大戦を経て、日本陸軍は状勢に適応した要塞整備に着手した。しかし、大正10年12月9日、地震のため第2海堡防波堤に幅約15センチ程の亀裂が生じたほか若干の被害が出た。さらに翌11年4月及び8月26日午前10時頃、強震に見舞われて特に第2、第3海堡は甚だしい震害を受けた。

そこで、同年10月13日から復旧工事に着手し、翌12年3月に復旧工事が完了したが、半年を経ずして大正12年9月1日関東大震災に見舞われ東京湾要塞は致命的打撃を受けるに至ったのである。

各海堡は捨石を基礎としたため、その破壊状況は水深に比例して大きく、第3海堡については基礎を構成する防波堤、護岸が全部転覆してしまった。だが、それに比して第1海堡は被害が極めて少なく、第2海堡は両者の中間程度であった。

上部建造物の被害程度も基礎破壊の程度に比例し、第1海堡の被害は少なく、第2海堡においてはコンクリート構造物の壁に縦横に走る大亀裂を生じた。また、第3海堡においては中部及び頭部の一部を除きコンクリート建造物は全部海中に転覆あるいは大きく傾斜するに至った。

太平洋戦争

これらの海堡のうち、第1海堡は、第2次大戦中まで高射砲陣地が置かれたが、第2、第3海堡が関東大震災で大破し、第2海堡は竣工8年をもって全砲台が除籍処分となり、第3海堡は施設の3分の1が水没。火砲4門が金谷砲台、4門ずつが走水、千駄ヶ崎に転用。そして大正12年除籍となっている。

東京湾口では、旗山崎、第3海堡、第2海堡、第1海堡、富津岬を防潜網にて結び、その外側の浦賀水道に二重の機雷網を、昭和20年4月14日に敷設完了し、外湾口では洲ノ崎灯台沖ノ山に機雷礁を増設している。

海中防御の防潜網は、昭和26年に至って再び進駐米軍により同じラインで再敷設され、翌1月、富津寄りの南側に聴音機らしき水中工作物が増設され、漁船の航行が完全に遮断された。

平年推定漁獲高22,550トンは約70%の減産となり、昭和29年4月関係者による東京湾軍事施設被害対策委員会を組織。県と共に投錨禁止区域撤去と漁船航行のための防潜網の一部開口を要望。その結果、6月に第1海堡から第2海堡へ50メートルの間が開口された。昭和30年4月18日にこの防潜網は全部撤去された。

これで予備知識はバッチリですね。
続きは【第2海堡上陸作戦】