難極物語

南極の歴史-1

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2000年4月22日

南極の地図(Flash)

このときの模様を簡単に書いてみよう。まず、3人の探検家がほぼ同時に南極点を目指したのは、イギリスのピアリーが北極点に到達したからだった。実はみんな北極点到達一番乗りを目指していたのである。

そして、3人はいずれも鯨湾のロス棚氷から上陸した。ここから南極点を目指すのが、一番近いことを知っていたのだ。最初に南極点に到達したアムンセンは10台のソリを52頭の犬に引かせて出発。途中、アムンセンは荷物が軽くなるごとに、弱った犬から射殺して食料にし、往復約3,000キロを98日間で走破。帰ってきたときには犬が11頭になっていたそうだ。

一方、スコット隊は馬に荷物を引かせて出発し、途中にデポを設置しながら進んだ。彼もまた馬を最終的には食料にすることを考えていた。しかし、馬は犬ほど役に立たず、いよいよ山越えというときに最後の馬もクレバスに落ちてしまい、アタック隊の5人は人力でソリを押して極点を目指すことになった。

約1ヶ月遅れで南極点に到達したスコットは、帰路でとうとう力尽き、デポから20キロの地点で帰らぬ人となった。しかし、後にスコット達の亡骸が発見され、荷物の中から貴重な岩石標本35キロが発見されて、彼の名声はさらに高まった。

そして、日本の白瀬だが、彼は期待していた日本政府からの援助が受けられず、大隈重信らの援助で出発することになった。もしこのとき日本政府が白瀬に資金を与えていたら、白瀬が世界初の南極点到達を果たしていたかもしれない。白瀬の犬達は良く訓練されており、9日間で300キロ近く走ったのだ。

なお、このときに白瀬はロス棚氷の西側を探検し、そこに広がる雪原を“やまと雪原(ゆきはら)”と命名して領有宣言をした。しかし、この領有権については敗戦時に放棄させられている。

その後、いくつかの国が南極の領有権を主張したが、南極条約が締結されたおかげで、今でも南極の領有権は凍結されたままだ。しかし、中にはアルゼンチンのように軍人を家族ぐるみで住まわせて、暗に領有権を主張している国もある。(南極で子供を産ませて居住権も主張している)

日本の南極観測がはじまったのは1957年。1月29日に東オングル島で昭和基地の建設がはじまり、第一次越冬隊が初めてここで越冬した。このときは物資輸送に時間がかかり、宗谷は帰路でソビエトの砕氷船オビ号の援助を受けることになった。(オビ号は現在の砕氷艦“しらせ”級の船だったらしい)

翌年の2月、第一次越冬隊は宗谷に乗ってきた第二次越冬隊と交代するはずだった。しかし、この年は厚い氷に阻まれて、宗谷が昭和基地に近づけなかった。宗谷は左舷のプロペラが1枚根元から折れ、必要なパワーが出なくなってしまったのだ。

仕方なく、第二次越冬隊は小型飛行機(ビーバー機;昭和号)を甲板で組み立て、第一次越冬隊を帰還させることになった。しかし、11人の越冬隊と6頭の子犬、成犬3頭を収容したところで猛烈な嵐に遭い、タロとジロを含むカラフト犬15頭を昭和基地に残したまま撤退することになった。

日本人は情が厚く、特に犬猫を大事にする国民である。その当時、南極観測隊には罵声が浴びせられ、隊員の家には抗議の電話までかかってきたそうだ。アムンセンが犬を次々に食べながら南極を目指したなんてことは、当然知らなかったのだろう。

実はこのとき宗谷によって連れ帰られたカラフト犬達は、南極探検から生きて本国に帰った世界初の犬だった。それまで、すべてのソリ犬達は南極で一生を終えていたのである。もちろん日本隊は犬達もすべて連れ帰るつもりだったが、最後の隊員達を乗せた飛行機がギリギリセーフという状態で、それ以上の飛行は断念せざるを得なかったのだ。


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