冬の相模湾

ヤリイカ釣り

2001年1月24日

相模湾から見た富士山(1月)

冬の相模湾もいい。丹沢の向こうに雪化粧した富士が見える。この景色を見ながら酒を飲み、弁当を食べ、常連さんと世間話をしながらイカをしゃくる。

庄治郎丸五号船

海を見ると心まで広々としてくる。イカの気持ちを考えつつ、ただ時の流れに身を任せてフワフワしてみる。今日は釣れなかったが、なぜか疲れは感じない。むしろ気分爽快で、明日への活力が沸いてきた。

【草枕】夏目漱石

山道を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安いところへ引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、絵ができる。

昨晩、夏目漱石の【草枕】を30分ほど読んだ。何が書いてあるのか、よくわからない。でも、眠くなるどころか、脳に一服の清涼剤が届いたような気分だった。

まるで文章の川を下っているようで、漕がずとも止まることがない。ボーっと眺めているだけで、文章が自然に流れていった。これを読んだら、釣れようが釣れまいが、そんなことはどうでもいいとさえ思えてきた。お気に入りの時を、お気に入りの場所で過ごすことが癒しなのだ。まあ、釣れれば、なお楽しいかもしれない。しかし、釣れなければ、釣り以外で面白いことを発見するまでである。

Tomy は釣りに行くと『魚を釣りたい』という気持ちより、観察眼が研ぎ澄まされて、周囲の観察ばかりしている。なぜかわからんが、同行者のセリフを丸暗記できたり、見た情景をだいぶ経ってからでも克明に書き著せる。また、釣れないときの変な妄想も、なぜか映画のワンシーンのように色つきで覚えている。大物が釣れれば、忘れることもあるが、たいていはセコイ獲物しか掛からないので、いつでも文章が書けるのである。

お金をもらわずに自由に書けるということ。実はこれ、夏目漱石には味わえなかった贅沢なのである。頭の中でモヤモヤしている事柄、こんがらがったストーリーが文章になると、大物が釣れたときよりもうれしい。

釣れなくても「楽しかった」と言えること。実はこれ、釣りのプロには味わえない贅沢なのである。魚が針に掛からなくても、一瞬触った感触でもあれば、十二分にワクワクする。釣果より釣り場までの道中、人との会話、天候の変化や情景の移り変わりがオモシロイ。

今日は船釣りだが、たまに下田の犬走島堤防に長時間立ちたくなる。釣れても釣れなくても、そこが好きだから動きたくない。高知に行くときも、なぜか地の果てのような古満目漁港に行きたくなる。はるか遠くの・・・たった数十メートルの空間に・・・なぜか立ちたくなる。釣れても釣れなくても。

もっと近場にこういう場所があればいいと思う。でも、遠いからこそ、たまに行きたくなるのかもしれない。釣れても釣れなくても、好きな場所に立って、お気に入りの道具を使うだけで釣りは楽しい。好きな景色を眺めつつ、好きな動作ができるだけで釣りは楽しい。

そして、どこへ行っても大して釣れないと悟ったとき、お笑い釣り日誌が生まれて、Flash ができる。


INDEX