漁魔が行く-01(立志編)

坂本竜馬の生涯と幕末の年表

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1999年1月29日

漁魔が作った年表です。だいたいあってると思います。

年号 坂本竜馬の行動と主な出来事
1835 1 11月15日郷士坂本家の次男として、高知城下に誕生した。(郷士というのは町人上りの下級武士)
江戸時代、土佐の藩主は関ケ原の合戦で手柄を立て、遠州掛川五万石から土佐二十四万石にのし上がった山内家だった。なお、山内家は掛川時代の家来を上士、元々土佐にいた侍を下士として差別していた。(郷士も身分の低い下士だが、坂本家はわりと裕福だった)
1846 12 母(幸)が死去。その後は姉の乙女が母代わりになった。塾に行っていたのは12歳のほんの一時だけで、その後は剣術を習った。姉の乙女は男勝りの大女で坂本の女お仁王様と呼ばれ、鷲尾山でピストルまでブッ放していたそうだ。
1853 19 剣術修行のため江戸へ行き、北辰一刀流千葉定吉道場に入門。このころ長州の桂小五郎と剣道の試合をしたのがキッカケで知り合う。(千葉周作の弟)
この年の6月、ペリーが浦賀に来航した際、竜馬は黒船を見に行ったと言われている。
1854 20 6月に江戸より帰郷。河田小龍に会い、蒸気船などについて啓発される。(商船団を率いて大海原を駆け回る夢を抱く)
1858 24 北辰一刀流免許皆伝。この年、井伊直弼(井伊大老)はハリスの執拗な要求に屈して日米通商条約を朝廷の許可なしに締結した。さらに、井伊は尊皇攘夷派の反乱を恐れて安政の大獄を実施し、吉田松陰ら尊王攘夷論者を次々に処刑した。
1860 26 桜田門外の変。水戸浪士と薩摩藩士によって井伊直弼が斬殺され、いよいよ尊皇攘夷の気運が高まった。
1861 27 8月に武市半平太が「土佐勤王党」を結成。9月に竜馬もこれに加盟した。(月形半平太のモデルになった人)
行友李風が書き下した【月形半平太】は新国劇の当り狂言として一世を風靡、何度も映画化されている。月形は勤王派ではあるが、独り開国論を唱えて同志から異端扱いされ、常に命を狙われるという設定だった。(実際とはチョット違うみたい)
京都の芸奴「月さま、雨が…」
月形半平太「春雨じゃ、濡れていこう」
このセリフは誰でも知っているだろう。それから、円月殺法も知っている人は知っているだろう。(かなり古いけど…)
実際の半平太はキザな男で、自分の刀を汚すことはなかったらしい。土佐勤王党では人斬り以蔵(岡田以蔵)が暗殺者として有名だ。以蔵は次々に佐幕派を暗殺したのである。
1862 28 3月に竜馬は土佐藩を脱藩
4月土佐勤王党那須信吾ら吉田東洋暗殺。
10月勝海舟の門下生となる。(つまりこの時点で土佐勤王党とは別行動になったのだ。海舟は開国論者だから、攘夷派にとっては敵だったわけ)
1863 29 2月脱藩の罪を赦免される。
10月神戸の勝塾塾頭となる。
12月土佐藩の帰藩命令に応じず、再び脱藩。
1864 30 海舟との関係で東奔西走。西郷隆盛、横井小楠らと会う。
この頃、Tomy がイカ釣りに通う伊豆下田にも船で立ち寄っている。
1865 31 5月長崎で亀山社中を設立。これは日本最古の会社組織と言われている。竜馬は海運業で巨利を得て、軍艦や商船をたくさん建造するつもりだったのである。
この年、土方楠左衛門、三条実美、桂小五郎らに会い、薩長同盟のため奔走。(同じ土佐出身で、のちの陸援隊隊長・中岡慎太郎も薩長同盟に尽力したが、司馬遼太郎の小説【竜馬が行く】があまりに竜馬をかっこよく描いたため、中岡の存在は竜馬の陰に隠れてしまった)
1866 32 1月に薩長同盟成る。(これが竜馬の功績として最も有名)
伏見の寺田屋で幕吏(新選組)に襲われたが無事脱出。お竜を伴って薩摩に80日ほど湯治旅に行った。(当時は女性を連れ歩くのはご法度だったため、日本人として初めて新婚旅行をしたのは坂本竜馬だということになっている)
1867 33 亀山社中を海援隊に改編し、海援隊長に就く。いろは丸沈没事件起きる。
6月、後藤象二郎、長岡謙吉らと夕顔丸で長崎を出港。船中八策を作り上げた。(船中八策は大政奉還後の新政府が摂るべき政策を8ヶ条にまとめたもので、のちの新政府に多大な影響を与えた)
10月、後藤と福岡、老中板倉伊賀守に船中八策を基本とした大政奉還建白書を提出する。そして、ついに徳川慶喜が大政奉還の決意を表明。
11月15日京都近江屋で、中岡慎太郎といるところを暗殺された。(刺客が誰だったのかは未だに諸説別れるところである。奇しくも11月15日は竜馬の誕生日で、数え年は33才だったが、正味生きた期間は32年だったわけだ)

船中ハッサク

参考資料その1:船中ハッサク

参考資料その2:坂本家の家紋

これが坂本竜馬について必要最低限の知識です。これらを踏まえて読み進みましょう!