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1999年12月2日
今回の話は【漁魔が行く(室戸編)】の続編です。なお、漁魔のセリフは、必ず「の」が「が」になりますので、ご承知おきください。
高知の地図(FLASH)
高知市のぺこぺこハウスを出ると、間もなく56号線は仁淀川を渡って土佐市になるのだが・・・
「あれ? ←左“USA”と書いてありますよ」
「あぁ、あれは“ユーエスエー”じゃのうて宇佐ぢゃ。地図を見てみ」
「ホントだぁー、なんか入り組んだ湾がありますね」
「そうそう、“浦が内湾”というがやけど、そこには“宇佐伝説”があるがよ」
「宇佐伝説?! それは初耳ですね」
「大昔、今から1000年以上も前が話やけど、そこがまだ湾になっちょらん時期があったがやと。もうぉー、魚が海から、あふれるばあ、こじゃんとおった時期があったわけ」
「ふむふむ・・・」
「そうすっと、サメもしょうまっこと、こじゃんとおるわけや。で、あるとき中国から客人が来たわけ。・・・宇佐に。なんでも遣唐使の交換留学生だったらしいぜよ」
「なんでまた、中国の交換留学生がド田舎の土佐に来たのでしょう? 普通は奈良とか京都に行くでしょうに・・・」
「土佐日記って、聞いたことがあるやろ。古今和歌集を編集した紀貫之(きがつらゆき)という人が書いたとされるやつ」
「ああ、そう言えば土佐日記というお菓子の看板がたくさんありますね」
「それそれ。そが留学生は古今和歌集を漢詩に訳そうとしたがやけど、うもぉいかなかったき、土佐守(とさがかみ)としてこちらに赴任しちょった紀貫之に会いに来たらしい」
「なるほど、なるほどぉー」
「紀貫之が話は置いといてぇー、サメがこじゃんとおったという話に戻るぜよ」
「そうか! 中国と言えば、フカヒレですよね!」
「そうそう。中国ではフカヒレが珍重されるき、ここでサメをこじゃんと獲って、一儲けしようという話になったらしいぜよ。本来が目的なんぞ、コロッと忘れてな」
「それで?」
「うん、サメ釣りがエサには何がエイかということを研究した結果、山で捕まえた白うさぎに浮袋を付けて、生かしたまま泳がせちょくんが一番エイいうことがわかったんや」
「ふむふむ・・・それから?」
「で、漁師は白うさぎをエサにして、こじゃんとサメを獲って大儲けしたがやけんど・・・、あるときしょうまっこと巨大なサメが掛かったんだニャー」
「どれぐらいの大きさですか?」
「そりゃーもう、地球を釣ったかと思うばあ、しょうまっこと巨大なサメだったちや」
「ほぅー!」
「漁師は三日三晩、交代で綱を引いたがやけんど、なかなかサメは弱らんちゃ。しっかし、四日目が朝になって、ようやく岸まで引き寄せることができたがやと」
「どれぐらいの大物かな?」
「そりゃーもう、あんましにも巨大なんで、岸に寄せたところで、ヒレだけ斧で切ったらしいぜよ。ほいたら・・・」
「そうしたら?」
「サメはだんだん鳥に食われて骨ばあになったがやけど、顎が骨がここに残って“浦が内湾”になったんぢゃと・・・」
「ホントですかー?」
「これは USO。いま土っ佐に考えたがっちゃ。室戸であんましにも釣れんかったき、宇佐バラシしたかったがよ」
紀貫之が土佐守に任じられて京都から土佐へ渡ってきたのは、930年というから本当に1,000年以上も前のことだ。このとき貫之は60歳になっていたのだが、古今和歌集を編集した歌壇の大家が、なぜまた60にもなって土佐守に任じられたのかは未だに謎である。
貫之が土佐日記の書き出しで女のふりをしたのは有名な話だが、それはなぜかというと・・・。当時の日記は男のもので、すべて漢詩体だったのだ。そうすると、書くのが非常に面倒くさいっしょ。貫之はつらつらとクダラナイ愚痴をこぼしたかったので、漢詩体では都合が悪かったのだろう。
だから、紀貫之は和文(仮名まじり)の日記を書いたのだと言われている。
宇佐伝説は真っ赤なウソ。ここだけの話だから決して語り継がないでほしい。しかし、この話と似たような龍の伝説や弘法大師にまつわる伝説が本当にあるということだ。
ところで、宇佐はカツオ節発祥の地として有名なところである。宇佐の亀蔵という人が紀州の人から教えられたカツオ節の作り方を発展させ、江戸時代に土佐独特の製法が確立したらしい。カツオ節は土佐藩から幕府への献上品として珍重されたのだ。
たまには文学の話も書かんと、文学部を出た意味がないからね。それにしても、どうしてこう脱線するのかな? なかなか目的地に着きやしない。
先へ進むぞ!